2010年5月9日

「NPO法人四条京町家」の設立

2009年7月頃、私たちに伝わってきたのは、四条京町家が京都市伝統産業振興館としての営業を、2010年3月末をもって終了するというニュースだった。四条京町家は、2002年から京都市が個人所有者から借りて、伝統文化や伝統産業などの情報発信基地として活用されてきた。京都市は財政難を理由に、今回契約の更新を見送った。

2010年4月から四条京町家はどうなるか、多くの人たちの関心事だった。この町家には、多くの観光客が訪れ、イベントごとに人々の縁を生み、これを取り巻く人々は数知れないものとなっていた。これまでに多くの市民団体が伝統文化の発信拠点として活用されてきたこの町家は、個人の所有物ではあるものの、もはやその枠を越えた「公共空間」となっていた。

しかし、この町家は貸会場として機能しながらも、利用者間および団体間の横の連携が図られることはこれまでになかった。この町家を大切に思い、愛してきた人たちの思いが共有、集約される機会はなかった。
せっかく、似たテーマ性を持ち、同じ場所を拠点に活動しているのだから、そんなひとたちのコンテンツやエネルギーは、集約できる部分があるはず。それは、これまでの個別の活動の延長ではなく、新しい「公共空間」を生み出す原動力になるに違いない、と信じていた。

そこで、この町家を取り巻く人たちの思いを共有し、これからのことを語り合う場を設けたのが2009年9月のこと。
それから数ヶ月にわたってミーティングを重ね、思いを共有できる人たちと新しい事業体をつくりあげるに至った。
市民主体で、伝統文化の情報発信拠点として「公共空間」を管理、運営していく試み。
2010年5月7日に、「特定非営利活動法人四条京町家」の設立が認証された。
まだまだ、課題は山積しているが、もう進むしかない。

2010年5月5日

昭和20年代の社会にICT(中国雑感3)

龙游は、約40万人の地方都市。街には昭和末期くらいの河原町を思わせるような繁華街もあるが、一方で昭和20年代のような小さな商店の並ぶ通りもある。野菜の露天商、車の修理所、日用雑貨屋、安い食堂... 人々のふれあいがあるようだが、衛生的に大丈夫か?と心配せずにはいられない。
そんな昭和20年代の街にも、それとは違うところがある。お店の中では、子供がPCでゲームをしている。道行く自転車タクシーのおじさんは携帯で話をしている。昭和20年代に携帯があったら...日本もこんな風景だったのだろうか。

携帯はかなり行き渡っているようだ。道行く人の多くが携帯片手に話しながら歩いている。もちろん、電車やバスの中でもお構いなしだ。バスの中では、携帯でメールをやりとりしている姿も多く見かける。ピンイン入力に入力予測機能があるので、比較的容易に入力ができるとのこと。

Googleは撤退し、YouTubeやUstream、TwitterなどといったUS主導の市民参加型(?!)Webサイトのアクセスは不可だが、中国国内のSNSやMicro-Blog、動画サイトは人気を集めている。中国人の若い普通の女性2人にインタビューをする機会を得た。彼女らは、日本の若者以上に、柔軟に、自然にICTを使いこなしているようだった。ICTは一部のマニアのものではなく、普通に日常生活やビジネスで必要なツール、生活基盤だ。

私、コンピュータ苦手だから、とか言ってる日本の方が、むしろそのあたりの意識は遅れているのではないだろうか。
昭和20年代を引きずっていても、意識は大きく転換しつつある。大丈夫か、日本。

都市の成熟とデリカシー(中国雑感2)

自分の存在を主張するかのように、公衆の場で大声で話す。ホテルのロビーを子供たち走り回る。親はたばこを吸いながら当たり前のように見ている。さらには、そのたばこをエレベーターの中にまで持ち込む。もちろん、誰がいようとも大声で話す。廊下では、相棒に閉め出されたのか、大声をあげながらドアをたたく人がいる。中国・龙游では、一流といわれる国際ホテルでも、そんな状況は珍しいことではないようだ。

街に出ると、店員の無愛想さは随一だ。人が多いから、放っておいても客が来るからか。「あ、来たの?」と言わんばかりに。
物質的に豊かになっても、マナーを守るデリカシー(delicacy)は養えない。都市の成熟とともに、秩序ある社会を築けるか。

そんな群衆が、いま世界各国からちやほやされて、国際社会の中で存在感を増している。
この論理を国際社会に持ち込み、多数派(majority)が標準(standard)なんだ、と主張し始めたら、世界はどうなるか。
一応の品格と気遣いによって秩序を保ってきた世界は、バランス感覚を失ってしまわないだろうか。
マネー資本主義の主導する急激な発展は、都市の成熟とは何か、という課題を世界に突きつける。

激流中国(中国雑感1)

中国・杭州(Hangzhou)市と龙游(Longyou)県を訪れた。

杭州市は、人口700万人を擁するとあって、市街地が延々と続く。人、人、人の波だ。一部の場所に人が集中しているのではなく、ただ単に人が多いのだ。繁華街も、ビジネス街も、観光地も、もちろん駅前も、走っても走っても、人が絶えない。
人々は思い思いに動き、乗用車とバイクと自転車と歩行者が入り乱れる大通り。車が来てもお構いなしに横断する歩行者と、ぶつかりそうにならなければブレーキを踏まない車。お互いに権利を主張しあっているように見える。
こうして、自己主張しなければ、群衆の中に埋もれてしまうのか。自分が生き残るために、少しでも前に出ることが当たり前になった結果なのかもしれない。

杭州駅で電車の切符を買おうと思ったら、30ほどある窓口すべてに長蛇の列。1時間待ちだ。連休前の大移動の前だった。
駅の改札を通ろうとする人を制御しようと、監視員が門を閉め、人を誘導する。群衆は、導かれるままに流れを変え、次なる目的地へ向かう。人の流れは、大きなうねりのよう。誰も止めることのできない「激流」だ。

群衆を制御するためには、情報統制は当然のこと。政府は国民にそこそこの満足感を感じさせ、適当にベクトルを操るべく情報を与え、結束させないことが国家運営の安定につながるのかもしれない。
市民メディア?そんな言葉、誰も知りません。