2009年5月31日

「アーキテクチャ」が導くこと

建築家のことを「アーキテクト」というが、情報システムを構築する人のことも「ITアーキテクト」などといったりする。建築の世界では、「アーキテクト」によって構築される建築の様式のことを「アーキテクチャ」と呼ぶ。また、同様に、コンピュータに関する設計や構造全般についても、「コンピュータ・アーキテクチャ」と呼ぶ。

異なる業種であるが、情報システムの業界では、建築になぞらえて、用語の体系ができている。「無」の状態から、構造あるものを構築するという点で、製作するプロセスなどにおいても、似ている点が多いと考えられている。

他方、そのアーキテクチャの利用者にとっても同じことがいえるかもしれない。建築物は、なにもないところに意味ある空間を生みだし、その中にいる人々の行動や感情を制御することができる。そこには、新たな感動をもたらすものもあれば、無理な行動から人を守り、危険を回避するための仕組みも備わっている。

コンピュータ・システムを使っていてもそう感じる。人が効率的に物事を進められるように誘導してくれたり、おかしなことをやってしまわないように、エラー処理が実装されていたりすることで、仕事を安全に進めやすくなっている。そういったアーキテクチャの中にいれば、自然にやっていたことは、アーキテクチャの外に出れば、できなくなるおそれもある。そのとき、アーキテクチャが自分を導いていたことに気付かされる。

アーキテクチャが人の心をつかむことができれば、自然と人を導き、そう行動させる力がある。これはひとつのシステムとして機能し、社会を動かす原動力になるのかもしれない。

2009年4月20日

さ、つぎ行こ。

論文を提出して、学位を取得して、ひと区切りついたかのように見える。
でも、論文というヤツは、いくら書いても、どんなに考えても、完成しない。というかむしろ、考えれば考えるほど、調べれば調べるほど、書くことは膨らんでくるので、書くことはいつまでも尽きない。満足できない。終わらない。

未完成な作品の後ろ姿を眺めながら、後悔と苦悩を抱えたまま、指をくわえて見ているわけにはいかない。
一本の論文を書いただけで、少し身についたかもしれない「論」の技術は、まだぐらついている。ここで、自分の技術にするためには、もう一本書かなければ、この一年の意味がなくなる。

また、昨年書いた論文は、インターネットがNPOに与えた社会的な影響について論じているわりには、社会になんのインパクトも与えない。もっと、人の役に立つことを書きたい。そんな欲求に耳を傾けてやれば、また新しいことが見えてきそうだ。

2009年3月4日

専門を生かすとは、

他人から見て、「あの人、こうすればもっと良くなるのに!」と思ってしまうことは良くあること。自分に対しても、きっと他の誰かから見れば、もっといいやり方があるのかもしれない。意外と、他のセクターの人の言葉は、耳に入ってこないもの。

人は、自分が経験した範囲でしか、物事を認識できない。特定のセクターに籠もっていては、いつまでも視野は広がらない。だから、セクターを越えたコミュニケーションは重要。セクターを越えてコミュニケーションするからこそ、他のセクターの実態がわかるし、そこへ自分の知を生かす機会を得ることができる。

「専門家とは、ある特定の分野のみに造詣が深いことを言うのではない。その専門知識を社会の様々なシーンに適用し、他の分野に生かすことのできる人を言う」
ある教授が言った。

自分の「専門」を手に携え、いろんなところに行ってみよう。

2009年2月17日

10年のカタチ ―論文雑感2―

僕がものづくり塾で活動に参加し始めたのは、1999年3月。つまり、今月でちょうど10年の節目を迎える。

僕のNPOとしての活動は、Webを通した「縁づくり」そのものといってもいいかもしれない。まだ、NPOがホームページを持つことが珍しかった頃から、ものづくり塾の活動をホームページで積極的に情報発信し続けた。その結果、職人さんやNPOの方々はもちろん、学生さん、起業家の方や大学の先生まで、僕の会社生活では決して得られない様々な縁を得ることができた。僕の活動は、Webなしでは考えられなかった。

10年の間に、NPOのあり方は少しずつ成熟してきた。ネット環境は、ただのホームページから「Web2.0」時代を経て、「クラウド化」へと進化し続けている。そして、それらを取り巻く現実社会は、消費社会の限界を露わにし始めた。

僕らを取り巻く環境は変わり続ける中で、僕のやりたいことは、一貫して社会になにかを伝えることだった。ただの独り言ではなく。だから、ブログミーツだった。社会に対して、一人一人の市民がなにかを伝えることで、社会を動かそうとするブログミーツのコンセプトは、僕にWebの使い方を提言してくれていた。

だからこそ、論文にしたいと思った。この論文は、僕のこの10年のひとつのカタチなのかもしれない。

2009年2月16日

「あき らめる」 ―論文雑感1―

先月、なんとか論文を書き上げた。
最初の感想は、1年間かかって、自分が書いてきたことの結論はこんなものだったのか、という脱力感のような感触だった。

各方面からの誘惑を断ち、休みの日は図書館にこもり、テーマのことばかりを考えて憂鬱な気分になり、睡魔に耐え、過ごしてきたこの1年間の成果は30,000字あまりの、このテキストだった。

でも、自分にできることは、はじめからこの程度のことだった、と思えば気も楽になってきた。1年前の自分は、自分にもっと良いものが書けるような過度の期待を持っていたのかもしれない。その幻想がはっきり見えただけのことなのだろう。

「あきらめる」という言葉は、ネガティブな響きの言葉として捉えられているが、もともとは仏教用語で「明らかになる」という意味らしい。時を経るにつれて、いろいろなことが明らかになってくる。自ずと自分の限界も見えてくる。それで、身の丈にあった活動をしていくことができるのでしょう。

2008年12月29日

今年のキーワードは「論」と「Lean」

「論」。
これが、今年の僕に突きつけられたテーマだった。
これまで、活動してきたこと、感じてきたことは我流で、漫然としていることに歯がゆさがあった。ただやっているだけでは、意味がない。ただ知っているだけでは、価値がない。それを言葉や行動にして表現いくことで可視化し、理論化することによって説得性を持たせる。そこから、きっとまた新しいなにかが生まれることを願って。
NPOでの活動を通して感じている問題意識、それを解決するための手段、考えていることはあるけれど大きく広がらない活動に、突破口を見出そうとした。そこで、今年はそれを理論化し、論文に落としていくことにした。そして、来年以降の基盤にするのだ。

それを果たすためには、「無駄のない(Lean)」時間管理が必須だった。仕事をしながら、授業を受けながら、未知の学術という世界で論文を書くことは並大抵のことではない。
大きな課題を自分に課し、一つ一つを直向きに果たしていく。隙があれば論文を書き、書を読み、ひと息ついたと思ったら、また論文に戻る毎日。日々の生活の中で有象無象の欲や誘惑の中から、自分にとって必要なものがなにかを見つめ直すきっかけになった。Leanな時間管理は、仕事、プライベート、すべてにおいて贅肉がそぎ落とされた感じになる。

でも、まだまだ。
もっとストイックになれるのかもしれない。
来年は、この上に何を積み上げようか。

2008年10月16日

課題と約束

「それ、やってみろよ」
ぽんと背中を押されるときがある。いや、あえて自分で自分の背中を押してみるのだ。
今までやったことのないことにトライするのは面倒なこと。今までの延長でいけばどんなにラクか。そんなことしなくても、今までの生活は維持できるし、それをやってみたところで、だれもほめてくれるわけでもない。

でも、そんな平和な日常の中で、それをやってみることにする。できるかどうかわからないけど、やってみたらとってもタイヘンなことになるかもしれないけど、それをやってコケてしまうかもしれないけど。
「できないかもしれない」という健全な危機意識は自分を駆り立て、全力で成し遂げることを自分に強いる。
自分に見合うだけの課題を課し、それを乗り切ることで、過去の自分を越えていくことができるのだ。
「がんばる」とは、そんなことを自分に課し続けることなのかもしれない。

そのとき、仲間や指導者と向き合うことは、大きな力になる。それをやると仲間に宣言することで、それを嘘にしないために、全力でその課題をやりとげようとする。独りで取り組むのとはモチベーションが違う。それは「約束」と似た感覚だ。人と向き合うことは、自分に大きなエネルギーを与えてくれる。