2008年8月31日

アミニズム信仰を通して

この夏、日本各地を豪雨が襲い、毎週のように水害のニュースが報じられる。その度に、地域の人の「何十年と住んでいるが、こんな雨は初めてだ」という言葉を聴く。乱開発によって造成された新興住宅地では、買ったばかりの住宅が被害を受ける。誰も思いも寄らなかった気候変動は、私たちの生活を度々脅かす。天変地異は、やはり神の仕業か。

日本人の精神性に根付いている神道には必ず神がいて、日本全国の神社にその分霊を祀る。地域の人や観光客が訪れ、掌を合わせて祈りを捧げる。もはや、そこに神が実在しないことなど誰もが承知しているはずなのに、行為としての信仰は今も人々の中に息づいている。

祈りを捧げることの意味は、自分の手の届かない存在に対して畏敬の念を持ち、自らを戒めることであるように感じる。参道を歩く中で、自らの気を清め、神と対峙する。神社に祀られた「ご神体」に神を見いだし、自然の圧倒的な支配力に今さらながら気付かされる。「ご神体」の多くは、水や山や巨木など、いずれも自然の中に見出された神秘的とも言うべき存在だからだ。日本人は、そのアミニズム信仰を通して、自然と共生してきたのだ。

2008年8月11日

飾る美と飾らない美

美しいものに、人は心を奪われ、陶酔し、そしてパワーをもらう。
「美」について、ここでは2つに大別する。「飾る美」と「飾らない美」である。

「飾る美」は言わずと知れたことながら、絢爛豪華の限りを尽くした装飾美である。祇園祭の美もこれに類する。「飾る美」には、装飾のセンスが必要で、それを有形化する技術に高い評価が与えられることは疑う余地もない。他方、「飾らない美」は、不要なものを一切削ぎ落とし、そのものの本質を見せつける美である。侘び寂びの文化に象徴されるといえよう。世の中にある有象無象の中から美を構成するもののみを峻別する眼力と、それが映えるように抽出する技術が必要である。

「飾る美」は、それを見て誰もがすぐに美に気付くのに対し、「飾らない美」は、それを見極める眼がなければ、それに気付かずに通り過ぎてしまうこともある。そこに、私たちが日々の暮らしの中で持ち続けたい感性がある。いつまでもきらびやかに飾り続けることができるのは、ごく一握りの人だけだ。しかも、それらはいずれも自分の体の外にあるもの。「飾らない美」は、私たちが自身の中に持ち続けることができる。自身の中に培われた美意識は、外的刺激に感化され、さらに洗練される。

必要なものだけを構成要素とし、シンプルに象られたものは、いつまでも私たちを力づける。いつまでも、美を感じる心を持ち続けることは、私たちに生きる力を与える。