時の栞
昨日、壬生寺の大念仏狂言を観賞してきた。昨年に続いて2度目だ。
私の祖母は、四条堀川付近に実家があったので、子供の頃よく見に行っていたそうだ。祖母はあまり京都の祭礼を見に行ったりしないが、これに関しては無言劇のおもしろみや炮烙割りの情景を生き生きと語ってくれた。
私は昨年初めて観賞し、そのおもしろさを共有することができた。時を越えて、同じものをライブで見て感想を共有することができた。少し不思議な感じがした。
大念仏狂言は、演じる人が交代しても脈々と受け継がれ、同じ番組を同じように演じている。そして、私たちは祖母と同じように楽しむことができる。祖母がいなくなってしまった今でも。
秋元康氏がこのようなことを言っていた。「京都の人は町の行事を栞として持っている。」
毎年、同じように必ず巡り来る歳時記は、私たちの生活のリズムとして息づいている。でも、それはこれまでとは絶対に違う現在で、必ず数々の思い出を連れてやってくる。
来年は、どんな思いで壬生狂言を観賞することになるだろうか。